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震災に思う...語り継ぐ➀

なぜ、語り継ぐのだろう

神戸に北風が吹く季節になると(「六甲おろし」と呼ばれています)阪神・淡路大震災を思い出します。1月17日が近づくと震災関連のシンポジウムやイベントが増え、震災の話題が新聞やテレビ、ラジオで取り上げられる機会が増えるからでしょうか。それとも冷たい風があの時の風景や音、臭い、味といったものを記憶の底から引っ張り出すからでしょうか。
あれから26年が経って震災を知らない人がどんどん増えているのは仕方がありません。そして時が経てば「記念日」が来ないとニュースにならないのは、どんな災害、事件、事故でも同じです。ニュースはnewsと書き、もともと新しいことが複数あるという意味だそうです。過去の話はnewではないのです。
でも忘れ去ることはできません。
今年のキーワードもやはり「語り継ぎ」でしょうか。

「語り継ぎ」は、震災から時間が経過して「風化」が懸念され始めた頃から使われだした言葉ではありません。震災直後からずっと大切にされてきました。震災の事実を語り継いで同じ体験をする人がいなくなるようにしよう、災害に強い社会をつくろうと、被災者と支援者、行政と市民、企業とNPO、防災の研究者らが自分たちの震災体験を継承・発信してきました。そこには災害の教訓から学び、社会の防災力を向上させようとする人々のしなやかな姿勢があったのです。
でも、人々が語り続けるのは社会の防災力を向上させるためだけでしょうか。語りの中にはそのように外に向かうのではなく内に向かう語りもあると私は感じています。語りながら亡くなった方と会話し、語りながら自分の気持ちと向き合い、語りながら心を整理しようとする人々に(もちろんそんなに簡単なことではありませんが)、私は何度も出会ってきました。

心に残り続ける語り

私は震災から26年の間に様々な語りを聞いてきました。

ある消防士は高校生に震災時の消防の活動を話してくれました。消防の激しい奮闘を語っているのにその口調はむしろ淡々としていて、不思議な感じがしたのを覚えています。ところがその消防士が、5階部分がつぶれてしまった病院での救助活動を紹介した時、ひとりだけ助けることができなかったと、声を上げて泣き出しました。震災から7年目のことでした。嗚咽を聞く高校生たちの背筋がすっと伸びたのを覚えています。

看護学生だった女性は、けが人でごった返す病院で手伝いをしていました。赤ん坊を抱えて助けを求める母親に、先輩の看護師は「〇時〇分、この時間、覚えときや」と死を告げました。彼女は、先輩看護師のその強さに打たれたと言います。

1歳の赤ん坊を抱いた母親に、医師は心肺蘇生をするように言いました。彼女はずっと赤ん坊の小さな胸を押し続けました。もう息はしていないし、死斑のようなものも出ています。それでも押し続けました。赤ん坊は亡くなったんだという事実を母親が受け入れるまで、医師はずっと待っていたのかも知れません。

孤独死、独居死が続く仮設住宅で、お父ちゃんは「生きて仮設を出よう」というスローガンを作って朝から晩まで見回り活動を続けました。彼は妻を震災で亡くしました。その妻が、生前、地域で福祉ボランティアをしていたことを、彼女の遺品を整理しているときに知ったのです。震災前は「仕事と酒だけ」だったお父ちゃんが妻の遺志を継ごうと人生をかけて見守り活動を続けてきました。

子どもたちの体験談もたくさん聞きました。

小学校2年生の女の子は、同級生が亡くなりました。その時は死の意味が分からず、どこか遠くに行ったのだろう、また帰ってくるのかなと思っていました。ある時、自分の母と友だちの母がその亡くなった同級生の話をしているのを聞いていました。2 階の窓から手を振って助けを求めていたけれど、炎が近づいてきてとうとう飲み込まれてしまって…。あの強い母が号泣する姿を見て、死の意味を理解できた気がしたそうです。

小学校6年生の男の子は、いとこの家がもうすぐ炎に飲み込まれるから、家財や貴重品を取り出す作業についていきました。隣の家はもう炎に包まれているのに、大人たちが家からいろんなものを運び出しています。手伝いに来たはずの彼は、ビビって動けなかったと、それから10年以上経って悔し涙を流しながら話してくれました。

幼稚園児の女の子は、地震の後近くの公園に避難しました。高台にある公園からは、炎に包まれている町が遠くに見えました。白い灰がふってきたのを覚えています。母がずっと手を握ってくれていました。その力がいつもよりずっと強いので、大変なことが起こっていると理解したそうです。

3歳の女の子も震災を覚えていました。自分が崩れた家の中に閉じ込められていたこと、真っ暗な中で家族が名前を呼びあうのだけれども父親だけ返事がなかったこと、そして助け出された時に見た母の顔が血まみれだったこと。母が入院し、兄と彼女は祖父の教会で暮らしました。たくさんのボランティアに支えられたそうです。母が退院して家族3人の暮らしが始まり、ある日、甘いものを食べているときでした。お父さんも甘いものが好きだったねと母と兄が話していました。それがとても嫌だったそうです。彼女には、父が甘いものを食べている記憶がなかったから。

家は倒壊しなかったけれど、ライフラインが止まっていたので親せきの家に避難した男の子は、おばあちゃんに水道の話ばかりしていました。水が出るかどうかとても心配だったのです。おばあちゃんはその男の子をひょいっと抱き上げて、水道の蛇口をひねらせました。冷たい水がほとばしり出ました。ただそれだけのことなのに男の子はとても喜びました。

「語り」を「継ぐ」

自分自身の震災体験を直接語れる人は必ず減っていきます。たとえ震災当時の子どもたちであっても着実に年を重ねていきます。直接体験者の語りだけに頼っていては、いつか、体験を伝える人がいなくなります。
では、どうすればいいのでしょうか。答は簡単です。「語り」を「継ぐ」のです。誰かの話を聞いて、その話が心に残ったら、それを別の誰かに話せばいいのです。今、そんな動きが若者の間で始まっています。阪神・淡路大震災の被災地に住む未災者、東日本大震災のとき子どもだった被災者、未災地にいる未災の若者らが、地域を越えて語り合うとりくみがじわっと広がってきています。
心に残る多様な「語り」が引き継がれていく場づくりこそ、今一番大切なのではないでしょうか。場さえあれば、災害体験は必ず語り継がれます。

この記事を書いた人

諏訪 清二

全国初の防災専門学科 兵庫県立舞子高校環境防災科の開設時より科長を務め、東日本大震災をはじめとする国内外の被災地でも生徒とともにボランティアや被災者との交流に従事。
防災教育の第一人者として文部科学省「東日本大震災を受けた防災教育・防災管理等に関する有識者会議」など、防災教育関連の委員を務める。

2017年4月から防災学習アドバイザー・コラボラレーターとして活動開始。
学校での防災学習の支援活動を中心に、防災学習、災害、ボランティア、語り継ぎなどのテーマで講演活動も。
中国四川省、ネパール、スリランカ、モンゴル、エルサルバドルをはじめ、海外各地でも防災教育のプロジェクトに関わってきた。

2017年度~
神戸学院大学現代社会学部 非常勤講師
兵庫県立大学 特任教授
(大学院減災復興政策研究科)

2018年度~
関西国際大学セーフティマネジメント研究科 客員研究員

【著書】
防災教育のテッパン――本気で防災教育を始めよう

防災教育の不思議な力――子ども・学校・地域を変える

高校生、災害と向き合う――舞子高等学校環境防災科の10年
※こちらの書籍は、現在電子書籍での販売となります。

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