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震災28年、どう伝える? 〜語りを取り入れた防災教育のために〜

30年の壁

寒波がやってくると2つの震災を思い出します。28年前の阪神・淡路大震災と12年前の東日本大震災です。マスコミがあのときの出来事や人々の姿を伝えると、ああ、そうだった、そんなことがあったよなと、忘れかけていた記憶が呼び起こされます。
一方で、阪神・淡路大震災から28年が過ぎて、30年限界説が囁かれ始めました。30年で被災体験が語り継がれなくなる、体験が風化していくと多くの人々が心配しています。あの体験が忘れられてしまうという危機感が被災地でもじわっと広がっているようです。被災地での課題は紛れもなく被災体験の語り継ぎです。

文学作品が古典になるために

私は、もともと英語教師です。取得した教員免許は英語だけで防災は無免許で教えていました。大学で英語免許の取得を目指していた頃、外山滋比古という英文学者に出会い(本で、です)、時々、彼の本を読んで納得していました(分かった気がしていただけですが)。知の巨人と呼ばれる外山滋比古は、文学作品は30年を経て古典になるといいます(※)。5年や10年は短すぎるのです。25年でもまだ足らないそうです。
なるほど、30年も経てば、流行は変わります。誰もが読んだ本であっても生き残る作品はごく僅かです。社会が大きく変わり、作品に描かれている背景描写を実感を持って想像できない読者も多いでしょう。例えば、誰もがスマホを使っている今、「黒電話のダイヤルを回して…」みたいな表現があっても若い読者にはピンとこないでしょうね。社会が変化して、作品の背景を理解できにくくなるのも、忘却の一つの理由かもしれません。それでも読み継がれる作品が、30年を過ぎると古典となるのです。さらにもっと長い時間を経て、新たな意味を付け加えられる文学作品もあります。作者が亡くなってから、人々が作品のすばらしさに気づくのです。あるいは社会が作品にやっと追いつくのでしょうか。

本当は多様なはずの被災の受け取り方

もしかしたら私たちは、被災体験が人々の記憶に残るようにと願って、「復興」という被災の事実をほのめかす言葉を使っているのかもしれません。復興という言葉を使い続ける以上、人々は、被災したまちだという事実を感じ取ります。そして、復興が成し遂げられ普通のまちになった時、つまり復興という言葉が使われなくなった時、震災の記憶が失われていくのかもしれません。それが30年なのでしょうか。その時、被災体験が忘れ去られるのではなく、古典として残り続けるようにしなければと思います。
震災後に生まれた子どもたちが見る風景は、どんどん変わっていきます。子どもたちは、被災前のまちを知りません。がれきのまちを強烈に記憶する子どももいれば、建設中のまちが故郷の子どもいます。完成したまちしか知らない子どももいます。そんな社会で、被災体験をどう語り継いでいけばいいのでしょうか。

語り手と体験と聞き手と

被災体験の事実とそれを伝える方法論だけで震災が語り継がれるわけではないと私は考えています。外山滋比古は「作家論」と「作品論」だけで完結すると考えられていた日本の文学論に「読者論」を最初に提唱した人です(※)。
私はふと、この構図は被災体験の語りにも応用できると思いました。まず、被災者の存在です(作家論)。そしてその方が語る事実、体験、教訓の存在(作品論)です。教育はともすれば、被災者と語られる体験に注目しがちで、聞き手である子どもたちが体験談を聞いてどう考えたか、どう揺れたか、どう納得したか、そんなことを話し合い共有する場はあまり作りません。ただ、語りを聞かせて納得させようとします。感想文を書かせるだけです。ここを変えていきたいと考えています。
「読者論」は被災体験の「聞き手論」と捉えることができます。作者が伝えたいことをすべての読者が同じように理解するわけではありません。読者は、自分の生活体験や思考、志向、嗜好、そして信念などをもとに、作者が伝えてくれる内容を自分なりに解釈をして、自分の中にすとんと落とし込みます(もちろん、拒否や無視、戸惑いや困惑などもありですが)。被災体験で言うと、たとえ同じ被災体験を聞いても、聞き手によって受け止め方は違ってきます。聞き手の生活歴、経験の積み重ね、人生観が違うからです。ところが、教育は同じ解釈を押し付ける癖を持っています。命の大切さ、助け合いや思いやりのすばらしさ、そういった価値をみんな同じように受け止めようねと、指導者は語りかけます。だから、伝わらないのかもしれません。そこを変えたいと考えています。

語らいの場

その方法の一つが「語らい」の場づくりです。そこでは語り手と聞き手が自由に会話を交わします。一方的な価値の押し付けはありません。聞き手は、自分の価値観で体験を受け止めます。10人の聞き手がいたら、10通りの解釈があります。聞き手は価値の押し付けに惑わされることはありません。聞き手の自由度を許す語らいの場、それを防災教育に取り込みたいですね。

※「乱読のセレンディピティ」扶桑社、2016年

この記事を書いた人

諏訪 清二

全国初の防災専門学科 兵庫県立舞子高校環境防災科の開設時より科長を務め、東日本大震災をはじめとする国内外の被災地でも生徒とともにボランティアや被災者との交流に従事。
防災教育の第一人者として文部科学省「東日本大震災を受けた防災教育・防災管理等に関する有識者会議」など、防災教育関連の委員を務める。

2017年4月から防災学習アドバイザー・コラボラレーターとして活動開始。
学校での防災学習の支援活動を中心に、防災学習、災害、ボランティア、語り継ぎなどのテーマで講演活動も。
中国四川省、ネパール、スリランカ、モンゴル、エルサルバドルをはじめ、海外各地でも防災教育のプロジェクトに関わってきた。

2017年度~ 神戸学院大学現代社会学部 非常勤講師 / 兵庫県立大学 特任教授(大学院減災復興政策研究科)
2018年度~ 関西国際大学セーフティマネジメント研究科 客員研究員
2020年度~ 大阪国際大学短期大学部 非常勤講師
2021年度~ 神戸女子大学 非常勤講師 / 桃山学院教育大学 非常勤講師

【著書】
図解でわかる 14歳からの自然災害と防災 (著者:社会応援ネットワーク 監修:諏訪清二)
防災教育のテッパン――本気で防災教育を始めよう
防災教育の不思議な力――子ども・学校・地域を変える
高校生、災害と向き合う――舞子高等学校環境防災科の10年
※こちらの書籍は、現在電子書籍での販売となります。

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